メッセージ
まるで道草を食うように寄り道を楽しみながら、ものを考え、それを言葉にする力を子供たちにごく自然に身につけていってほしい。そんな思いから生まれたのが、このみちくさ作文クラブです。
ここで、みちくさ作文クラブの主宰者にしてただ一人の講師である私、野坂史枝について少しお話しいたします。
私がなぜ書くことや言葉に興味を持つようになったのか、現在英和翻訳者でもある人間がなぜ、子供向けの、しかも日本語の作文指導を始めようと思ったのか、そのあたりのことをご紹介できればと思います。しばしの間、おつきあいいただければ幸いです。
原点は、小学3年生で受けた
日記添削
いきなり告白から始めますが、私は小学校に入ってからの1、2年間、授業の意味というものがよくわかりませんでした。早生まれということもあったのか、クラスメートと比べてできないことも多く、なんだかよくわからないまま学校に行っていたような記憶があります。
授業参観で私の様子を見ていた母から、「あのね、授業の最後のほうで先生が大事なことを言っていたでしょう? それをちゃんと聞かないと。」と言われ、「ちゃんと聞くってどういうこと? 先生のほうをずっと見ているってこと?」と思ったのを覚えています。人の話をしっかり聞くという、その意味すらもわからなかったのがこの時期でした。
3年生になり、担任の先生がかわりました。おそらくその先生からクラスの生徒への呼びかけがあってのことだと思うのですが、私は毎日日記を書き、それを先生に見ていただくようになりました。朝、学校に行くと、教室の前にある先生専用の机に、日記を書いたノートを提出します。するとその日の午後、帰りの会でノートが返ってきます。ページを開くと赤ペンのきれいな字でコメントがたくさん書かれており、文章の横に花マルがついていることもありました。
日記を書く生徒はほかにもおり、先生はときどき、そうした日記の中からいくつかを選んで、みんなの前で読むということもなさいました。私もごくたまに読んでもらえることがあり、そういう日の日記は、ノートの表紙に日付が書き込まれることもあって、とてもうれしく、次はもっと上手に書きたい、と思うようになりました。
こうして、書くことを毎日楽しく続けさせてくれた先生のおかげで、知らぬ間に力がついていったのか、作文や読書感想文で学校の代表に選ばれたり、賞をもらったりすることも増えていきました。元来がお調子者気質の私はますますはりきって、印象的な書き出しを考えてみたり、会話文でメリハリをつけてみたりと、いろいろと工夫をするようになりました。
高校で知った、
言葉のおもしろさ
その後、東京都の公立中学を経て東京都立武蔵高校に進学した私は、そこで言葉のおもしろさを知ります。そのことを教えてくださったのは担任の英語の先生でした。
この先生の授業はとてもクリエイティブで、O・ヘンリーの短編から最後の一文だけ抜いたものを読ませてその一文を創作させたり、英字新聞にいくつか注釈を付けたものを配って日本語に翻訳させたり、興味がある人は読んでごらんと言って、言語や比較文化に関する本を紹介してくださったり、今思えば、高校1年生の英語の授業というよりは大学の一般教養の授業のようでした。
こうした授業を通して私は、英語、日本語の垣根を越えて言葉そのものに興味を持つようになりました。また、それまで科目のひとつに過ぎなかった英語を日本語との比較でとらえることで、「外国語という鏡に映った日本語」「外から見た日本」という視点を新たに得ることができ、そのことはのちの私の人生に大きな影響を与えました。
私自身も英語教師に
小学校で書くことの楽しさを、高校で言葉のおもしろさを知った私は、大学を決める際もそうした自分の興味を反映させた選び方をし、早稲田大学教育学部英語英文学科に進学、卒業後は高校の英語教師になりました。
教師として英語の授業をすることは好きで、楽しくもあったのですが、教師の仕事は授業以外にも多岐にわたり、言葉に関する仕事をしたかった私は、結婚を機に別の道を歩むことにしました。
そして翻訳者の道へ
その後、翻訳学校、翻訳会社勤務を経てフリーランスの英和翻訳者としてやっていくことになるのですが、この翻訳学校でさらなる出会いがありました。半年間の講座の最後の日、授業を受け持っていたプロの翻訳者でもある講師の方から、もう少し勉強してみないかとお誘いいただき、その先生の私塾のようなところで翻訳の勉強を続けることになったのです。
当時すでに数多くの訳書を出していらした売れっ子翻訳家の先生の授業は一切の妥協のないもので、プロとしてやっていくことの厳しさを毎回肌で感じて帰ってくるような日々でした。
当時先生から言われたことでよく覚えているのは、「野坂さんのやっていることは翻訳ではありません。創作です。」のひとことで、まずは原文を緻密に読み込むこと、それを正確に日本語にしていくこと、この二つを徹底的に教わりました。
厳しくも、プロとしての立場に徹して接してくださった先生のおかげで、私は翻訳の本当のおもしろさ、奥深さを知ることができました。それから20年近く経った今も、留学経験のない私が翻訳者として仕事のご依頼をいただけているのは、このとき先生に多くのことを教えていただいたおかげだと思っています。
きっかけは突然訪れた
2016年のお正月、なにげなくテレビの対談番組を見ていた私の心に、ドーンと入ってきた言葉がありました。言葉を発した主は、書家、というより芸術家といったほうがしっくりくる篠田桃紅さん。医師で2017年に105歳で亡くなった日野原重明氏とともに、互いにインタビューし合うNHKの番組「SWITCHインタビュー 達人達(たち)」に出演していたときのことでした。
なぜ、毎日筆を握るのか、と聞かれた篠田さんはこう答えました。わたしはうぬぼれ屋だから、昨日より今日、今日より明日のほうがきっとうまくかけるはず、そう信じているんです。
当時、篠田さんは103歳。100歳を超えてなお、こんなふうに思えたら、それはなんてすばらしい人生だろう! 私もこんな生き方をしたい。長きにわたって自分自身を鍛え、高め、それが誰かの役に立つような、そんな仕事をしよう。「したい」ではなく「しよう」と書いたのは、番組が終わる頃にはすでにそう決めていたからです(笑)。
ちょうどその少し前に、小学生の子供を持つ妹から、書く力をつけさせたくて子供と交換日記のようなことを始めたけれど、親子だとなかなかうまくいかない、という話を聞いていました。子供のころから言葉に興味を持ち、言葉に関する仕事をしてきた私は、「これだ!」と思って準備を始めることにしました。翻訳の仕事とはまた違ったおもしろさがそこにはあるのではないか、という予感のようなものもありました。
私自身には子供がいないので、妹や友人たちに協力を仰ぎ、その子供たちにモニターとして講座を受けてもらうことになりました。講座と言っても、テキストこそ市販の絵本や物語集などを使うものの、学年別の課題はすべて一から手作りで、「これで本当に子供がついてきてくれるだろうか」と不安に思いながらのスタートでした。
それから現在まで、小学1~5年生のお子さんにモニターとして受講してもらいましたが、幸いなことに当初の心配は杞憂に終わりました。
これまでモニターとして参加したお子さんたちはみな、毎週、意欲的に課題に取り組んでくれています。何より私自身、毎週新たな発見があり、子供たちの作文を読むのが本当に楽しいです。教えているつもりで教わることも多く、一人ひとりの力をもっと伸ばしたい、それぞれのがんばりにもっと応えたい、という気持ちにさせられることもたびたびです。
一人ひとりの言葉と向き合う
現代は、あらゆる面においてデジタル化が進み、何よりスピードと即効性が求められる時代です。そんな時代に、やりとりはすべて郵便、結果が出るのはもしかしたら十数年後……。なんとも悠長な講座ですし、時代錯誤なのかもしれません。でも、この時代だからこそ、こんな講座がひとつぐらいあってもいいじゃないか。そんな気持ちで、ここにみちくさ作文クラブを開講いたします。
開講後は、私の寿命がどれほどのものかはわかりませんが、篠田桃紅さんを見習って倦まず弛まず、できるだけ長く講座を続けていけるよう努力いたします。
一人で主宰し、一人で指導する講座ゆえ、多くのお子さんに携わることはできないかもしれません。でも、主宰者の考えに賛同して申し込んでくださる方々のために、何よりお子さん自身のために、お子さん一人ひとりの言葉とじっくり向き合い、そして「借り物でない、自分の言葉で語れる人になる」という何よりの結果を出すため、力を尽くします。もちろん私自身、大いに楽しみながら。
あなたの作文に出会える日を、心から楽しみにしています。
2018年
みちくさ作文クラブ 主宰・講師
野坂史枝